伝  通  院


【本 殿】

伝通寺。正式名称は「無量山伝通院寿経寺」という。
開草は応永22年(1415年)。徳川家康の生母於大の方がなくなった時その法名伝通院にちなんで菩提寺となったことから大きく発展した
於大の方、千姫等徳川ゆかりの墓がある
住所 東京都文京区小石川3丁目14
於大の方の墓。徳川家康の生母で三河刈屋の城主水野忠政の娘。天文10年岡崎城主松平広忠と結婚し翌年家康を生むが後に離婚して阿古屋城主久松俊勝と再婚したが人質として織田・今川方を転々とするわが子を慰さめ音信を絶たなかったという。法名伝通院にちなみこの寺名を伝通院とした 2代将軍秀忠の娘。慶長8年幼少の身で豊臣秀頼に稼し大阪城に入る。元和元年城を出て翌年桑名城主本多忠政の子忠刻と再婚した

孝子の墓。3代将軍家光の正室で前関白鷹司信房の娘。元和9年京都から江戸に下り江戸城西の丸に入り寛永2年家光と結婚するが公家出身で武家生活になじめないまま73歳で没した 清河八郎の墓。(中央)幕末勤王の志士で羽前(山形県)清川村斎藤治兵衛の長男。はじめ眞木保臣・平野国臣らの尊王攘夷運動に参画したが寺子屋事件に失望して文久3年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参加したが近藤勇・土方歳三ら佐幕派と対立し江戸に戻されその後暗殺された。左は貞女阿連の墓

沢宣嘉の墓。幕末に尊王攘夷を強く主張した公卿で三位主水正といい五郎丸と称していた。文久3年8月18日の政変による尊王攘夷派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡したが明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した 於奈津の墓。家康の側室

本殿 処静院跡の石柱。文久3年(1863年)2月4日幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」結成大会がこの処静院で行われた

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