明    智    城    


【城 址】
別  名長山城
所在地岐阜県可児市瀬田
築城年月康永元年(1342年)
築城者土岐頼兼
主要城主土岐氏
城郭様式山城
遺  構曲輪他
明智城は長山と伝えられる長い尾根続きの標高175mの頂上にある城です

弘治2年4月12日斎藤義竜と斎藤道三との間に戦いが始まった

斎藤義竜側についた美濃の諸将は揖斐城主揖斐五郎光親を始め総勢1万7千5百余りでこの中に明智十兵衛光秀もいた

この戦いは長良川を挟んで行われ、激戦死闘を繰り広げられたが道三方は大敗し、城田寺に逃げようとしたところを義竜方に討ち取られた

この戦いに明智城の光秀の叔父光安は状況判断して道三方へも加わらず光秀一人を稲葉城の義竜の陣営に送って旧土岐氏への義理を立て、自分はこの合戦に加わらなかった

これが義竜の怒りに触れ弘治2年9月城田寺で道三を討ち取るや明智城攻撃の軍を進めた

攻撃軍の大将は関城主長井隼人佐道利を初め井上忠左衛門道勝、国枝大和守正則、二階堂出雲守行俊、大沢次郎左衛門為泰、遠山主殿助友行、船木大学頭義久、山田次郎兵衛、岩田茂太夫を先陣とし3700人が明智城に向かって攻め寄せた

明智城では城将明智兵庫頭光安、弟次左衛門光久これに従う一族は溝尾庄左衛門、三宅式部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由等一族郎党合わせ850人が籠城した

光安は一族家臣を集め当城に立籠り、追手が来らば思いのまま戦って屍を大手の城門にさらし本丸に墳墓を残すべしと部下を励まし戦国武将の悲壮な覚悟とその心意気を示した

戦闘は2日間に及んだが城将光安は一族と共に前夜覚悟の酒宴を開き、翌日申の刻城外に打って出て華々しく最後の一戦をいどみ、本城に引き上げ城に火をかけ一族ことごとく自害した

光安は覚悟の自害に先立ち光秀を呼び、明智家断絶の非を説き光秀は生害を思いとどまり妻子と共に僅かな従者を連れて城を落ち延び揖斐郡揖斐川町桂の郷の叔父山岸勘解由左衛門光信のもとに身を寄せることとなった

考察・感想
この城は結構遺構が残っておりなかなか良かった
ここが光秀出生城と信じたい
駐車場
無料駐車場有(約30程度)
目標物
光蓮寺
アクセス
国道21号線を美濃加茂から御嵩方面に進みます
可児市に入ったら信号を右折し可児金山線に入り多治見方面に進みます
今度は信号を左折し御嵩可児線に入ります
最初の信号を直進すると団地に入りますが前方の山を目標に進むと西出丸への登城口に着きます(駐車スペース2台程度あります)
最初の信号を左折し瀬田川沿いを進み右側の山を目標に進むとあります
曲がり角に目標物がありません。山を目指してください
大手門です。城の正門で当時冠木門があったと思われる 桔梗坂です。登城道で細い谷間を利用して大手の登城道とし、谷の両側面を削りとって大手出丸の東側の防衛を兼ねて構築された竪堀の役目をはたしている

二の丸曲輪です 馬場跡です。後方が明智城功城戦の際に戦死した将兵を葬った塚と伝承されている七ツ塚の碑です

本丸曲輪です。城の中核となる最も重要な曲輪で、標高172.2mにある 西出丸です

見張り台跡です 六親けん属幽魂塔です。六親けん属幽とは明智一族・家の子郎党をさし、幽魂塔とは明智落城戦没将兵の霊魂の冥福を祈って後世いつの頃か瀬田村の人達によってひそかに建碑の年月もなく無名のまま搦手の砦址に建碑された。幽魂塔と名づけ、地中深く埋め込むように建てられたのは当時豊臣・徳川の厳しい政治弾圧があり世をはばかって建てられたようである

千人塚です。六親けん属幽魂塔の北隣に高さ1.5m、直径10mの円形土塚です。明智勢・斎藤勢を合同埋葬したものです 水の手曲輪です

搦め手曲輪です 搦手門です。東門に当たるもので木戸であったらしい

天竜寺です。明智氏の菩提寺で大手道の山麓の入口にある。日本一大きな明智光秀公の位牌(184cm)がある 天竜寺にある明智一族の墓です

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