桶狭間で今川氏を破った織田信長にとって斎藤龍興が支配する美濃攻略は上洛に向けての重要な戦略であった
永録7年信長は清洲をたち小牧に本拠地を移した。信長の侵攻に備え斎藤方である関城主長井隼人正道利を盟主として堂洞城主岸勘解由信周、加治田城主佐藤紀伊守忠能は反信長の盟約を結んだ
永録8年信長は鵜沼城・猿啄城を攻め落とし、旧暦8月28日堂洞城の攻撃が開始された。このとき信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守は北面の加治田から攻め入り酉刻に堂洞城は落城した
加治田城主佐藤紀伊守忠能は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していたが、加治田方が信長に寝返ったのを怒った岸勘解由は開戦前日に加治田城から良く見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされている
中濃3城陥落後信長の命により斉藤信五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継いだ
その後佐藤紀伊守は永録10年(1567年)に隣の伊深村へ隠居した
城主を継いだ斉藤信五は天正10年(1582年)本能寺で戦死した
その後加治田城は天正10年の加治田・兼山合戦では斉藤玄蕃を大将としてしのいだが、玄蕃の死後兼山城主森長可の領地となり廃城となった
- こぼれ話
- 昨年(2000年)ワイドショでもやっていました富加町の町営住宅の怪奇現象を聞いたことがあると思いますがこの原因が堂洞城で殺された八重緑の怨念という説もあります
- 考察・感想
- 清水谷川公園が加治田城の入口となっている
- 最初は2mほどの広い道路を登って行き途中から山道となる
- 案内標識が後半からしか無いため途中不安であった
- 海抜270mの古城山に加治田城があった
- 駐車場
- 清水谷川公園に無料駐車有
- 目標物
- 清水寺
- アクセス
- 主要地方道富加七宗線を七宗から富加方面に向かい富加町内で清水寺右折の看板の所を右折します
- 直進し川にぶつかったら左折し清水寺右折の看板の所を右折し坂を上がって行くと清水谷川公園がありここに車を止めます
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