猿啄城は規模660m×300mの城でした
応永14年(1407年)の頃は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)の城であった
享保3年(1530年)清和源氏土岐氏流で斎藤道三に仕えていた田原左衛門尉頼吉は大泉寺の正斎会に出かけていた西村善政を急襲して討ち城を乗っ取り猿啄城主となった
天文16年(1547年)頼吉は大泉寺の慣例により正月4日新年斎会に出かけたが、今度は自分の家臣である土岐氏流の多治見修理に襲われ討ち死にした
多治見修理は井ノ口に出任し、斎藤道三の情を受けて羽振りをきかせ義龍、龍輿に仕えた
永禄8年(1565年)8月信長は稲葉山城の外郭をなす東濃諸城を攻略しようとして美濃に侵攻した
織田信長は鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ猿啄城攻撃に向かった。猿啄城を守る多治見修理の軍勢は僅かで、攻撃する織田軍は丹羽長秀、河尻鎮吉を将とする2軍でその数は数千人であった
織田軍は山勢急峻で難攻したが優勢を頼みに押しまくり、また東西の屋根づたいに城に接近し火矢を放ち落城させ、多治見修理は搦手より脱出し北の山を越え落ち延びた
信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称することにした
河尻鎮吉は一連の東濃作戦が終わると信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった
天正3年(1575年)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった
- こぼれ話
- 現在このこの城跡に猿啄城展望台があるが、これは1997年12月に坂祝誕生100周年を記念して造られたものである
- この落城した際の悲劇が、姫ヶ渕や姥ヶ池などの伝説となっているそうであるが詳細は不明である
- 考察・感想
- この城の攻城はほんの軽い気持ちで登城したのだが大変な目に合ってしまった
- 凄い急な坂で、山頂に到着したときは、心臓が「バクバク」で気分が悪くなって展望台で横になっていた(風はすごく気持よかった)
- まさか、あの国道から見える高い山の頂上に見える建物まで登るとは夢にも思わなかった
- 国道に看板があったので、いろいろ調べもせずいきなり行く衝動登城は慎まねば、反省・反省
- 駐車場
- 無料駐車有(30台程度)
- 目標物
- 坂祝町の国道21号沿いの高い山(山頂に建物有)
- アクセス
- 国道21号を各務原から美濃加茂方面に進みます
- 坂祝町に入り「勝山」の信号を左折し、JR高山線を渡り「猿啄城展望台」の看板を左折します
- そのまま道なりに進むと左右に駐車場がありますのでそこに車を止めます
- 同じ道をさらに進むと左側に山頂への入口があります
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