高山城は標高686m、比高103mの山に築かれた城です
最初に城を築いたのは飛騨守護京極氏の家臣で守護代とつとめた高山外記であった。時は戦国時代永録元年(1558年)桜洞城主で京極氏の守護代であった三木自綱に謀られ彼と吉城郡高堂城広瀬宗城に攻撃され滅んだ
天正13年天下平定に乗り出した羽柴秀吉は越前大野城主金森長近に飛騨の攻略を命じ、長近は養子の可重と共に三木氏を滅ぼし軍功により飛騨33000石を与えられた
最初鍋山を居城としたが天正16年天神山の古城を本丸とし高山城を築城した
築城は天正16年から慶長5年までの13年間で本丸・二の丸が完成し以後可重により3年間で三の丸が築かれた
この城は御殿風の古い城郭形式で外観2層、内部3層の天守が築かれ、本丸屋形には台所・風呂・大広間・茶室などがあり、南の大手方面には南の出丸、北の搦手方面には東北曲輪・中段屋形が配置された
長近は美濃上有知に小倉山城を築いて移り高山城は可重に譲った
以後重頼、頼直、頼業、頼ときと続いたが、頼ときが元禄5年(1692年)出羽上山へ移封され高山城は終わりをつげる
その後幕府は飛騨を直轄地とし城の管理は加賀前田藩に命じられたが3年後高山城の取り壊しが命じられ徹底的に破壊された
- 考察・感想
- ここは山全体は残っているが遺構はあまり残っていない。前田藩の破却のすごさであろうか
- 周辺には高山城にあった物が移築されているのが救いである
- 周辺は道が狭く、一方通行が多いので注意が必要
- こぼれ話(大原騒動)
- 飛騨第12代代官大原彦四郎は明和2年高山陣屋に着任し幕府の方針により御用木元伐休止や検地による増石などにより郡代に昇任したがこれら厳しい政策は領民の反発をまねき明和・安永の大原騒動が起こった。
- 13代郡代を継いだ子の亀五郎正純も失政が続き天明の騒動をひき起こした
- 明和騒動(1771年)は御用木元伐休止やたび重なる租税増徴策に耐え兼ねた農民が年貢米江戸直納願に関係した町人の家4軒を打ちこわした
- 安永騒動(1773年)は国を挙げて古田畑再検の取り止めを嘆願したが聞き入れられず首謀者をもくされた数十名が磔等の極刑を受けた。検地増石の結果大原代官は布衣郡代に昇進した
- 天明騒動(1788年)は遅納金の払戻しをしぶり、御用金6千両の調達を強制するなど御役所不正の数々を幕府に告発した。郡代は八丈島に流され多数の御役所役人が処刑された
- 駐車場
- 二の丸公園の無料駐車場(約20台)、または周辺の市営有料駐車場
- 目標物
- 護国神社
- アクセス
- 国道41号を下呂から古川方面に進み、高山市に入り「上岡本町」の信号を右折し国道158号に入ります
- そのまま進み「名田町3」の信号を左折し、「名田町6」の信号を右折します
- 「宝橋」の交差点を右折し、左に飛騨信用金庫のある交差点を右折し市営駐車場のある交差点を左折し突き当たりを斜め右に進み城山公園の看板を左折し坂を登っていくと駐車場に着きます
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