◆ 船田の戦い(岐阜市下川手)


【正法寺跡】

「開戦地」
船田の戦いは「美濃の応仁の乱」といわれているものである。守護土岐成頼には嫡男政房があってこれを守護代斎藤利国が助けていたが成頼は末子九郎元頼が生まれると元頼の母にそそのかされ元頼に守護職をゆずろうとし元頼の力となるよう石丸利光を頼んだ
美濃の大地は政房と利国に対し元頼と利光との対立となり明応4年(1495年)戦いとなった
利国は加納城に、利光はそのすぐ南の舟田城におり両軍の先鋒は川手城から正法寺にかけて陣を張り正法寺境内で開戦した
利光は敗れ元頼と共に近江へ退き、ここで勢力を盛り返し翌年美濃に侵入し城田城に入り川手城の政房と対抗した
政房は大軍を進め城田城を囲み元頼・利光を自刃させ戦いは終わった
しかし、勝った利国は近江が援助したことを怒り攻めていったが敗れ利国とその子利親は討死してしまい政房は補佐の斎藤父子や父成頼も病死してしまい、重臣にも恵まれなかったため守護の勢力は急激に衰えていった
開戦地となった正法寺は土岐守護3代頼康が新しく川手城を築いて美濃・尾張・伊勢を治めたとき氏寺として城の隣に築いた寺で境内に仏殿・僧堂・浴室・鐘楼・倉・山門などが塀壁に囲まれ建ち並んでいた

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