◆ 川中島の戦い(長野県長野市)


【信玄・謙信の像】

【絵図】

「激戦地」
川中島の戦い。越後の雄将上杉謙信、甲斐の知将武田信玄が天文22年から永禄4年の13年間で4回戦われた
この中で最大に決戦は永禄4年(1561年)9月10日に両軍合わせ3万3千の激戦が繰り広げられた
信玄は濃霧の中8千を率いて海津城を後にし八幡原に向かい、別機動隊12000は謙信の立て篭もる妻女山攻撃に向かった
武田軍の前方には妻女山にいるはずの上杉軍でおり、上杉軍が車懸かりの陣形を見てとった信玄は鶴翼の陣から魚鱗12段構えに変えた
戦闘開始は以外な遭遇戦として始まり、兵力を分けていた武田軍は上杉軍に押され武田信繁、山本勘助らが討死し、風前の灯火となった武田軍に別機動隊が上杉軍の背後から襲いかかり、上杉軍は劣勢となり遂に敗走し、武田軍の勝利となった
三太刀七太刀之跡。乱戦んで武田本陣が手薄となったのを見た上杉謙信は旗本数騎をつれて本陣を急襲した。信玄めがけて謙信は只一騎隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれている
執念の石。身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信に武田軍の仲間頭原大隈が信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけ突き出し苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、返す槍で謙信んの鎧の肩を斜右上から力一杯打ち下ろしたがまたも外れ馬の三途をしたたかに打ったので驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため信玄は免れることができた。謙信を取り逃がした原大隅は傍にあったこの石を槍で突き通したといわれている
首塚。武田方の海津城主高坂弾正が激戦地となったこのあたり一帯の戦死者の遺体を敵味方の別なくあつめ手厚く葬った塚である
逆槐。武田信玄はこの地に上杉軍挟撃の陣地を構えた際この場所に土塁を積み重ね矢来を組み、盾を巡らして本陣をおき、この時土塁の土どめに自生の槐の杭を根の上にして打ち込んだのが芽を出し巨木に成長したと伝えられている
八幡社。旧社殿(鞘堂)で奥に現在の社殿がある
安在所。大正天皇がこの史蹟を見学され湯茶接待を行うための休憩所として使用された
【三太刀七太刀之跡】 【執念の石】 【首 塚】

【土 塁】 【逆 槐】 【 碑 】

【旧八幡社】 【安在所】 【佐久間象山象】

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