◆ 小牧・長久手の戦い(愛知県愛知郡長久手)


【古戦場碑】

【全景】

「激戦地」
小牧・長久手の戦い。天正10年(1582年)本能寺の変後羽柴秀吉は信長の後継者の地位を築きつつあり、これを不満とする信長の2男信雄は徳川家康を味方につけての戦いとなった
楽田城を本陣としたた豊臣秀吉と小牧山城に本陣を敷いた徳川家康。こうして小牧・長久手の戦いが始まったが本格的な戦いは行われず膠着状態が続いた
この中池田恒輿が別働隊でひそかに家康の本拠地岡崎攻めを秀吉に進言し三好秀次を大将として2万の兵を持って進軍したが、これを察知した家康は1万3千の兵を率いて追撃し岩崎城攻めに手間取り天正12年(1584年)4月9日尾張旭市にあった白山林で徳川勢が羽柴勢の最後尾三好隊に追いつき戦いを始めた
三好隊は総崩れとなり、これを知った池田恒輿らは引き返し追撃を続ける徳川本隊とがこの長久手で決戦となり、池田恒輿、元助親子、森長可といった秀吉方の有力武将が戦死し徳川・織田方の勝利で終わった
勝入塚。池田恒輿の戦死の場所といわれている。恒輿は大垣城主で、この戦いの中家康の本拠地岡崎攻めを秀吉に進軍した。
庄九郎塚。池田庄九郎(元助)の戦死の場所といわれている。庄九郎は岐阜城主で小牧・長久手の戦いでは父に従い参戦したが、この戦いで戦死した
血の池公園。小牧・長久手の戦いではこの一帯が主戦場となり秀吉勢と徳川勢が死闘を繰り返した所です。血の池は家康方の渡辺半蔵などの武将が血槍や刀剣を洗ったことからこの呼び名が付いたといわれている
鎧掛けの松。血の池で刀や槍を洗う際武将が鎧を掛けたといわれる松です
色金山歴史公園にある八幡社。天正12年(1584年)4月、徳川家康はこの色金山で軍議をめぐらし出陣に際して安昌寺の僧雲山の案内でこの八幡社に詣で戦勝祈願をした
色金山歴史公園にある床机石。徳川家康はこの色金山上に金扇の馬標を立て四方を望見して軍議をめぐらした
色金山歴史公園にある伴若狭守盛兼の墓。小牧・長久手の戦いで戦死した家康方の武将
色金山歴史公園にある胡椒庵。国宝如庵(犬山市)を手本にした茶室
堀久太郎秀政治本陣跡。秀吉方の武将堀秀政が桧ヶ根の戦いで本陣を布いた所
武蔵塚。秀吉方の武将森長可が仏ヶ根の戦いで戦死した所
御旗山。色部山に兵を進めた家康は白山林で先遣隊が三好秀次隊を破ったが堀秀政に敗れたとき救援に迎い、この御旗山に進軍し頂上に金扇の馬標を立てた
【勝入塚】 【庄九郎塚】 【血の池公園】

【鎧掛けの松】 【八幡社】 【床机石】

【伴若狭守盛兼の墓】 【胡椒庵】 【展望テラス】

【堀秀政本陣跡】 【武蔵塚】 【御旗山】

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