◆設楽原の戦い(愛知県新城市)


【名和式「鉄砲構え」】

【布陣図】

「激戦地」
設楽原の戦い。織田・徳川連合軍38000と武田勝頼15000が設楽原の連吾川を挟んで戦った
この戦いが有名なのは織田信長が大量の鉄砲を使い従来の戦術を一変させたという鉄砲3段撃である
武田信玄の子勝頼は天正3年5月三河の地に攻め込み長篠城を取り囲んだ
長篠城は奥平貞昌がわずか500の兵で守っており、徳川家康は織田信長に援軍を頼んだ
織田信長は出陣し、5月18日設楽原の連吾川に沿って陣地を築き馬防柵を設けた
対する勝頼は3000の兵で長篠城を囲み、残りの兵は設楽原に進軍し対峙した
名和式「鉄砲構え」:乾堀と馬防柵と銃眼付きの身かくし(土塁)の三段構えであった
勝頼本陣:長篠山医王寺に武田勝頼が本陣をしいた。境内の弥陀が池には勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが勝頼の勘気にあって切りつけられ片葉になったという「片葉のアシ」が生えている
盃井戸:大通寺にあり長篠の戦いの時には武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となった。設楽原出撃時には諸将がこの井戸に集まり水盃をかわした
【家康本陣】 【土屋昌次戦死の地】 【首洗池】

【勝頼本陣】 【盃井戸】 【山縣三郎兵衛息擬継ぎの井戸】

【信玄塚大塚】 【信玄塚小塚】

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