◆ 墨俣川の戦い(岐阜県安八郡墨俣町)


【古戦場碑】

【説明看板】

「激戦地」
義和元年(1181年)3月10日長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。同年2月4日平清盛が病死し東国源氏は京に攻め上がる。これを迎え討つため平重衝を総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛久等の部将7千余騎は杭瀬川を渡り右岸の墨俣側に陣を敷き、源氏の将新宮十郎行家は千余騎を率い左岸の羽島に着陣した
源頼朝は応援のため弟の源義円をつけ西上させたが合流せず2町を隔てて軍を敷いた
義円は行家に先陣されては兄頼朝に合わす顔がないと一人馬に乗り先陣の先駆けをしようとしたが平盛綱に討たれてしまった
源氏は戦利なく尾張源氏の泉太郎重光兄弟が討死し行家の子太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた
戦いに敗れ矢矧川まで退いたが、その後屋島の戦い・壇の浦の戦いで平家を滅亡させた
源義円は頼朝の異腹の弟で義朝の妾常盤御前の子義経と同腹の兄にあたり幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた
兄の挙兵を聞き比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み墨染の衣を着て鎌倉に駆けつけた
【義円公園の碑】 【義円供養塔】 【義円の墓】

ホーム バック