岩手城は時代によりいろいろ呼び名がある
菩提山城が築かれ、麓に館を置いたのが竹中館といい、重門が秀吉のもとで養育され、天正16(1588年)岩手に帰城すると麓の館を廃止し現在の地に岩手城を築き移った
大手門には重臣杉山内蔵助の門を移築したと言われている
関が原の戦い後徳川幕府の五千石の旗本となり岩手城はそのまま岩手陣屋(竹中陣屋)ととして明治維新まで続いた
正徳5年(1715年)頃の陣屋の坪割は東方の南北73m、西方の南北65m、南方の東西76m、北方の東西67mの大きさであった
- 考察・感想
- この部分だけ絵に描いたようにしっかり残っています
- 遺構はほとんど小学校の敷地となり破壊されてしまいました。残念!!
- この櫓門は裏にある幼稚園が毎日くぐって通学しているそうです
- 門から先は私有地で立ち入り禁止になっています
- こぼれ話
- 関が原の戦いで領内が戦場となり荒らされたので、徳川家康より見舞いとして米千石が贈られ、その米で城未完成部分(堀や一部の石垣)を築いたので、今も千石堀の名が残っている
- 駐車場
- 駐車スペース有(約2台)
- 目標物
- 岩手小学校
- アクセス
- 国道21号を岐阜から関が原方面に進みます
- 大垣市に入り「河間」の交差点を右折し「池尻町」の交差点を左折し関が原バイパスに入ります
- そのまま進み右側に竹中半兵衛案内塔があるので、その交差点を右折し、そのまま進むと左にあります
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