黒    野    城    


【城址碑】
別  名
所在地岐阜市黒野
築城年月慶長2年(1597年)
築城者加藤貞泰
主要城主加藤氏
城郭様式平城
遺  構曲輪・土塁・堀
黒野城は東西870間×南北600間の城でした

加藤貞泰は加藤光泰の嫡男である

加藤氏は安東家の一族で土岐氏、斎藤氏に仕え、のち秀吉に従って戦功をあげ天正10年丹波周山城主(1万7千石)、近江海津城主、近江高島城主(2万石)、天正13年大垣城主(4万石)となったがあるとき秀吉の機嫌を損ね秀長附属となり大和秋山城主(1万1千石)となった

しかし、秀吉の勘気赦免で近江佐和山城主(2万石)となり、天正18年小田原平定後甲府城主(24万石)に栄進した

文禄元年(1592年)朝鮮に出兵時、戦場での軍規を逸脱した言動に石田三成は腹を立てていたが、文禄2年朝鮮からの帰国時急死してしまった(石田三成の毒殺ともいわれた)

光泰不始末の上の死により領地は没収され翌3年美濃厚見郡・方県郡4万石を支給されたが実に6分の1の減禄移封であった

慶長5年(1600年)関が原の戦いが始まり父光泰の急死と削減移封のことで三成に遺恨を抱いていた貞泰は家康に従うつもりであったが、岐阜城主織田秀信が西軍につき周辺の諸将の秀信に同調したためやむなく追従した

東軍が岐阜城攻撃態勢に入ると三成は竹鼻城・犬山城の備えを強化し、貞泰は犬山城援軍として各武将達と進駐したが、岐阜城が落城し犬山布陣の諸将は揃って軍監井伊直政・本多忠勝に詫びを入れ東軍に帰属した

慶長15年(1610年)米子城6万石に転封となりこの黒野城は廃城となった

こぼれ話
貞泰の米子城転封は、長良川の氾濫により加納城下が浸水したのは貞泰が築いた長良川右岸堤防に原因があったためといいががりを付け加藤氏を追い出して奥平領への加増を図った亀姫が幕府に対して強く談判した策謀であったともいわれている
考察・感想
城址は黒野公園となっており、本丸跡はグランドとなり攻城に行ったときはゲートボールをやっていた
城址周辺は狭い道で注意が必要です
なかなか立派な土塁と堀が残っていた。満足・満足
駐車場
無(ただし、城址の南側には駐禁ですがスペースはあります)
目標物
KVK工場
アクセス
名鉄新岐阜駅の前の道(国道256号)を高富方面に進みます
長良橋を渡り、「長良北町」の交差点を左折します
そのまま進むと右手にKVKの工場あり、この工場の終わった所を右折します(狭い道です)
そのまま進むと右側にあります
本丸跡です 北側の土塁です

南側の堀です 北側の堀です

全景です 黒野別院です

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