大井城は規模300m×180mの城でした
大井は美濃国の東部に位置し美濃と信濃の両勢力の接点のあたる要所であった
室町幕府の4代将軍足利義持が正長元年(1428年)急死し後嗣がなかったため将軍継承をめぐって京都と鎌倉の足利両家が対立し不穏な情勢となった
永享七年(1435年)鎌倉の公方持氏は信濃国守護小笠原政康と豪族村上頼清との紛争に乗じ将軍を無視し関東・東北の諸将を信濃国へ出兵させた
将軍義教持氏討伐の好機到来とみて、第7代美濃守護土岐持益、越前朝倉孝景らを将とする25000の持氏追討軍を差し向け信濃鎮圧、鎌倉攻略を果たし持氏は自刃した(永享の乱)
この乱で守護土岐持益は、信濃国境に近い要衝大井の守備を同族の原秀行(初代守護土岐頼貞の兄定親の玄孫)に命じ、阿木川右岸の段丘上に大井城を築き、名を大井遠江守秀行と改めた
応仁の乱・文明の乱が起こると(1467〜77年)第8代美濃守護土岐成頼は西軍に組し京都へ遠征中、その留守を美濃守護代斉藤妙椿が東軍勢力と戦い守っており、妙椿の武名は東軍中で恐れられる様になった
文明5年(1473年)3月、西軍の首領山名宗全が没し、西軍の勢いが衰えると勢力挽回のために、斉藤妙椿が、兵を率いて上洛、東軍は、妙椿牽制の為に信濃から守護小笠原家長と木曽家豊を東美濃へ侵攻させ11月大井城は真っ先に信濃勢の大軍に攻撃を受け落城し、以来天文年間(1532〜55年)まで信濃勢の駐留が続いた
戦国時代に入り、土岐守護家も斜陽化し小笠原勢も東美濃から撤退すると、替わって岩村城を本城とする遠山氏が、勢力を広げ岩村城の外郭防衛のため遠山18城を構成させこの大井城も外郭に組み入れられて、重臣藤井宗常が城将となって城の修築を行った
元亀3年(1572年)11月武田信玄の美濃攻略が始まり武田の武将秋山晴近に岩村城が奪取され、翌年の天正元年2月大井城も武田勢に攻略された
秋山晴近は大井城の重要性に着目し、城郭を甲州流技法にのっとり大改築し腹心の部将を城将に入れて岐阜の信長と対峙させた
天正3年(1575年)11月信長は東濃地域から武田勢を一掃するため嫡子信忠を総大将とした大軍を投入し本拠岩村城を攻撃奪取し、この大井城も落城した
その後大井城は使用されることなく廃城となった
- 考察・感想
- 現在の恵那市立大井小学校の所が城址であり、ほとんど遺構が何も残っていないのが残念です
- 写真を撮るために小学校の運動場に入っていたら、低学年らしき子供が「先生」と呼びながら寄って来たのにはびっくりした(10mくらい手前で違ったと言いながら90度カーブしていった)
- 駐車場
- 無料駐車有(小学校の駐車場を利用)
- 目標物
- 恵那市立大井小学校
- アクセス
- 国道19号を瑞浪から中津川方面に進みます
- 恵那市に入り「正家」の信号を左折しそのまま進みます
- 「大井町」の信号を右折しそのまま進みます
- T字路となりますので、そこを左折し、少しだけ進むとY分岐となりますのでそこを左折すると左側にあります
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