周  辺  の  史  跡

菊ヶ浜土塁(女台場)です。外国船来襲に備え土塁を築いたが築塁には留守を守っていた多くに女性が参加したため女台場とも呼ばれた 旧益田家物見矢倉です。永代家老益田氏の屋敷の一部です

旧繁沢家長屋門です。阿川毛利家の分家で、建物は桟瓦葺き切妻造り、桁行35.5m、梁外4.9m、中央から左寄りに門をあけている 旧周布家長屋門です。大組士の筆頭で1530石の周布家の長屋門

旧福原家萩屋敷門です。永代家老福原氏の萩上屋敷の表門 旧二宮家長屋門です。大組士891石の二宮家の長屋門

口羽家住宅の表門です。寄組士1018石の口羽家の表門で萩に現存する最大の長屋門で片潜門の左に門番所がある 口羽家住宅の主屋です。門と住宅がセットになっているのは珍しい

堀内鍵曲です。敵の侵入・攻撃に備えるため、左右が高い土塀を連ね鍵の手に曲がっている 旧祖式家長屋です

問田益田氏旧宅土塀です。永代家老益田氏の分家で4096石の益田家の土塀 天樹院にある輝元夫妻の墓です。ここは輝元の隠居所四本松邸のあった所

北の総門です。三の丸の東側に当たる出入口であった 菊屋家住宅です。毛利輝元に従って山口から移ってきた藩の御用商人で、幕府からの使者が泊まる本陣として使われた

高杉晋作誕生の地です 木戸孝允宅です

武家屋敷 野田家です。萩藩遠近組に続し51石の中級武士野田七郎左衛門の屋敷 常念寺表門です。京都聚楽第の裏門であったが毛利輝元が聚楽第解体の折豊臣秀吉より拝領した

野山獄です。正保2年(1645年)9月17日藩主岩倉孫兵衛は酒に酔って藩士野山六右衛門の家に切り込み家族を殺傷したため岩倉は死刑、両家とも取り潰され屋敷は藩の獄になった。野山獄は上牢として士分の者を収容した 岩倉獄です。下牢として庶民を収容した

御船倉です。藩主の御座船・水軍船をしまっていた蔵 模型です

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