城 主 | 略 歴 |
二階堂 行政 | 二階堂氏の祖、源頼朝に早くから仕え鎌倉幕府の文史として幕政に参画する。稲葉山に砦を築き京都への押さえとした |
佐藤 朝光 | 二階堂行政の女婿。行政の後を受けて稲葉山城を守る |
伊賀 光宗 | 佐藤朝光の次男。鎌倉幕府の評定衆となるが幕府に疎まれ信濃国に配流される |
稲葉 光資 | 伊賀光宗の弟。兄伊賀光宗信濃国は配流された後を受けて稲葉山城を守り氏名の伊賀を居城から稲葉と改姓 |
二階堂 行藤 | 二階堂行有の子。鎌倉時代末期の武将で永仁元年(1293年)幕府政所執事となる。関周辺に領地を持っていた関係もあり娘理趣尼と共に臣長谷寺の再興に尽力した |
斎藤 利永 | 斎藤氏は北面の武士として仕えた家柄である。利永は美濃国土岐持益の執権として二階堂行藤が去ったあと長く城郭が失われていた稲葉山城を修築して居城とした。1456年持益の子持兼が早死したため後継者争いが起こったが利永は土岐氏の同族者から土岐成頼を迎え敵対者を圧えたこの争いを解決し守護家を守った |
斎藤 妙椿 | 斎藤利永の弟。応仁の乱が起こると美濃国守護土岐成頼は兵8千人を率いて京都に出陣し西軍の山名氏に味方して戦っておりこの間妙椿は稲葉山城で美濃国内を治めた。常在寺や瑞龍寺を建立した |
長井新左衛門尉 | 斎藤道三の父。山城国出身で山崎屋と号して油売りを業として全国を渡り歩いたと伝えられる。美濃国守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りし、子の道三と共に利安の家臣西村家を奪い取ったという |
斎藤 道三 | 斎藤利政、晩年入道して道三と号した。美濃国守護土岐氏の老臣西村家を奪い取ったという斎藤佐藤朝光の次男。鎌倉幕府の評定衆となるが幕府に疎まれ信濃国に配流される |
斎藤 義龍 | 斎藤道三の子で母三芳野は美濃国守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に産んだといわれる。はじめ新九郎高政と称し、弘治元年(1555年)叔父長井道利と謀って道三に背き長良川の戦いで父を討ち破った |
斎藤 龍興 | 斎藤道三の孫。尾張国の織田信長と連戦し次第に利を失い永禄10年(1567年)稲葉山城を奪われ越前国の朝倉氏に身を寄せたが朝倉氏の滅亡と運命を共にする |
織田 信長 | 織田信秀の子。永録10年斎藤龍興を破り清洲城から稲葉山城に移った |
織田 信忠 | 織田信長の長男。天正4年(1576年)信長が岐阜城から安土城に移ると岐阜城主となる。天正10年本能寺の変で京都妙覚寺に龍もり明智軍と奮闘の末自刃する |
神戸 信孝 | 織田信長の3男で伊勢国神戸氏の養子となる。本能寺の変後羽柴秀吉とともに明智光秀を破って美濃国を領し岐阜城主となる。秀吉が柴田勝家と争うと勝家と結び兄信雄・秀吉と抗争しが勝家が敗死したため信雄に降り尾張知多郡内海に逃れ自害する |
池田 元助 | 池田恒興の嫡男。恒興・元助の父子は本能寺の変後羽柴秀吉に与力しその功により恒興は大垣城主に、元助は岐阜城主に、弟の信輝は池尻城主となる。小牧・長久手の戦いで父子共に討死にする |
池田 輝政 | 池田恒興の次男。長久手の戦いで父・兄が戦死したため岐阜城主となる。後吉田城主・姫路城主となる |
豊臣 秀勝 | 豊臣秀吉の姉の子で秀吉の養子となる。丹波亀山城主・甲府城主を経て天正19年岐阜城主となる。朝鮮出兵時病死する |
織田 秀信 | 織田信忠の子で信長の孫にあたる。岐阜城で生まれ幼名を三法師といい、本能寺の変後岐阜城から清洲城に移り、清洲会議の結果信長の後継者として安土城に移ったが天正12年岐阜城に戻り豊臣秀勝が岐阜城主となったが関ヶ原の戦いでは西軍になり東軍により開城。合戦後高野山に入り剃髪した |