岐   阜   城   


【復興天守閣】
別  名稲葉山城
所在地岐阜市天守閣
築城年月建仁元年(1201年)
築城者二階堂行政
主要城主斎藤氏・織田氏
城郭様式山城
遺  構天守台・櫓跡・石垣
岐阜城は標高336m、比高308mの金華山山頂に築かれた城です

築城は鎌倉幕府政府の執事二階堂行政で、戦国時代には斎藤道三の居城でもあった

永録10年8月織田信長がこの城を攻略し地名を「井の口」から「岐阜」と改めた。周の文王が岐山より興って天下を平定した故事によるものといわれている

また、このときより「麟」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用し始めた

岐阜城は安土城が築かれる10年間信長の本拠とし、その後信長の長男信忠が居城した

本能寺の変後は神戸信孝・池田元助らが入城したが、関ヶ原の戦いでは織田秀信が西軍に味方したため東軍に攻められ開城した

その翌年岐阜城は廃城となり天主閣・櫓は加納城に移された

歴代城主
城        主略 歴
二階堂  行政二階堂氏の祖、源頼朝に早くから仕え鎌倉幕府の文史として幕政に参画する。稲葉山に砦を築き京都への押さえとした
佐藤   朝光二階堂行政の女婿。行政の後を受けて稲葉山城を守る
伊賀   光宗佐藤朝光の次男。鎌倉幕府の評定衆となるが幕府に疎まれ信濃国に配流される
稲葉   光資伊賀光宗の弟。兄伊賀光宗信濃国は配流された後を受けて稲葉山城を守り氏名の伊賀を居城から稲葉と改姓
二階堂  行藤二階堂行有の子。鎌倉時代末期の武将で永仁元年(1293年)幕府政所執事となる。関周辺に領地を持っていた関係もあり娘理趣尼と共に臣長谷寺の再興に尽力した
斎藤   利永斎藤氏は北面の武士として仕えた家柄である。利永は美濃国土岐持益の執権として二階堂行藤が去ったあと長く城郭が失われていた稲葉山城を修築して居城とした。1456年持益の子持兼が早死したため後継者争いが起こったが利永は土岐氏の同族者から土岐成頼を迎え敵対者を圧えたこの争いを解決し守護家を守った
斎藤   妙椿斎藤利永の弟。応仁の乱が起こると美濃国守護土岐成頼は兵8千人を率いて京都に出陣し西軍の山名氏に味方して戦っておりこの間妙椿は稲葉山城で美濃国内を治めた。常在寺や瑞龍寺を建立した
長井新左衛門尉斎藤道三の父。山城国出身で山崎屋と号して油売りを業として全国を渡り歩いたと伝えられる。美濃国守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りし、子の道三と共に利安の家臣西村家を奪い取ったという
斎藤   道三斎藤利政、晩年入道して道三と号した。美濃国守護土岐氏の老臣西村家を奪い取ったという斎藤佐藤朝光の次男。鎌倉幕府の評定衆となるが幕府に疎まれ信濃国に配流される
斎藤   義龍斎藤道三の子で母三芳野は美濃国守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に産んだといわれる。はじめ新九郎高政と称し、弘治元年(1555年)叔父長井道利と謀って道三に背き長良川の戦いで父を討ち破った
斎藤   龍興斎藤道三の孫。尾張国の織田信長と連戦し次第に利を失い永禄10年(1567年)稲葉山城を奪われ越前国の朝倉氏に身を寄せたが朝倉氏の滅亡と運命を共にする
織田   信長織田信秀の子。永録10年斎藤龍興を破り清洲城から稲葉山城に移った
織田   信忠織田信長の長男。天正4年(1576年)信長が岐阜城から安土城に移ると岐阜城主となる。天正10年本能寺の変で京都妙覚寺に龍もり明智軍と奮闘の末自刃する
神戸   信孝織田信長の3男で伊勢国神戸氏の養子となる。本能寺の変後羽柴秀吉とともに明智光秀を破って美濃国を領し岐阜城主となる。秀吉が柴田勝家と争うと勝家と結び兄信雄・秀吉と抗争しが勝家が敗死したため信雄に降り尾張知多郡内海に逃れ自害する
池田   元助池田恒興の嫡男。恒興・元助の父子は本能寺の変後羽柴秀吉に与力しその功により恒興は大垣城主に、元助は岐阜城主に、弟の信輝は池尻城主となる。小牧・長久手の戦いで父子共に討死にする
池田   輝政池田恒興の次男。長久手の戦いで父・兄が戦死したため岐阜城主となる。後吉田城主・姫路城主となる
豊臣   秀勝豊臣秀吉の姉の子で秀吉の養子となる。丹波亀山城主・甲府城主を経て天正19年岐阜城主となる。朝鮮出兵時病死する
織田   秀信織田信忠の子で信長の孫にあたる。岐阜城で生まれ幼名を三法師といい、本能寺の変後岐阜城から清洲城に移り、清洲会議の結果信長の後継者として安土城に移ったが天正12年岐阜城に戻り豊臣秀勝が岐阜城主となったが関ヶ原の戦いでは西軍になり東軍により開城。合戦後高野山に入り剃髪した

こぼれ話
円徳寺境内に織田塚がある。道三によって追放された美濃守護の土岐頼芸は尾張の織田信秀(信長の父)を頼った
信秀は天文16年(1547年)美濃に乱入し9月22日加納で激戦が展開されたが、夕刻になっても勝敗が決せず日が沈んだので織田軍が引き揚げようとしたとき四方に伏せてあった道三の兵が一斉に鬨の声を上げて蜂起し織田軍に襲いかかり散々に打ち破られ信秀も命からがら逃げ帰りあとには無数の屍が残されそれを葬ったのが織田塚である
もとは別の所にあったが夜な夜なこの塚のあたりから鬨の声が聞こえるようになり雨の夜は人魂が漂うようになり恐れおののいた里人は戦死した兵が成仏できずさまよっているだろうと名僧の雲外禅師を招き大供養を営んだところ異変は止まったという
考察・感想
さすが道三・信長が居城していた城、難攻不落の城である。この城がどうして落城してしまうのだろうか?
手ぶらで登るだけでも大変なのに、鎧兜を着けてここを登って行くとは。まさしくすごいの一言に尽きる
岐阜城まで行くには「ロープウェー」・「登山道(3ルート)」・「途中まで車で途中から七曲登山道)」の3つの方法があり、一番楽なのはお金はかかるがロープウェーです
駐車場
岐阜公園有料駐車場
目標物
岐阜公園
アクセス
名鉄新岐阜駅を降り右側に進み、途中右折がありますが道なりに進むと金華山が右に見えてきます
駐車場は岐阜公園を過ぎ、長良川の手前を斜め左(案内看板有)に行き先程の道の下をくぐり少し進んだ所を右折すると右側に駐車場があります
ロープウェー山上駅を降り右側にあるリス園が煙硝蔵曲輪です 天下第一の門です。大手道三の丸に冠木門を復元し天下第一の門と名付けられた

太鼓櫓です。18m×10mの平場となっており、現在はレストランとなってます 一ノ門通路の巨石です

一ノ門新旧跡です。一ノ門のは二つの時期の門があり、新しい時期の門は信長期で、平らに削った岩盤や礎石の上の柱を立てている。古い時期は斎藤期で、穴を掘って柱を立てていました 一ノ門新旧跡の説明です

一ノ門にある岩盤を掘り抜いた巨大な穴です。用途は不明です 一ノ門にある岩盤を掘り抜いた巨大な穴説明です

上格子門跡です。岩石が堀の代わりをなし、西に七間櫓を控え、東には谷が深く要害の地である 馬場跡です。上格子門の北方南北54m、東西54mの平地があり岐阜城天守閣登城のとき諸士が馬を繋いだ所と言われている

二ノ門下東谷側石垣です。長さ4.8m、高さ1.5mの4段の石垣です 二の門下発掘石垣です

二ノ門入口の石垣です。信長期と推定され、角の部分は非常に大きな石材を用いて積み上げられています 二ノ門手前に築かれた石垣です。積み方から後斎藤期を推定され、信長期以降も引き続き利用された

二の丸です 台所曲輪です。現在は気象台観測所建物が建っている

千成瓢箪発祥の地です。岐阜城攻撃にあたり秀吉は山麓の猟師堀尾茂助等7名を従え岩戸口よりこの地に潜入し薪小屋に火を放ち大いに奮戦した。この時空瓢箪を槍の穂先に結びつけ城兵数名を倒したといわれ、この地が千成瓢箪発祥の地といわれている 天狗岩です。この天狗岩で瓢箪を上げたといわれている

題目塚です。岐阜城は斎藤道三以来多数の戦没者を出しているためこれらの霊を諌めるためいつのころから無名の信者によって南無妙法蓮華経のお題目碑が建てられた 金華山閻魔堂です

天守と上台所を繋ぐ天空の通路石垣です。長さ30m、高さ3mで石垣の途中に犬走り状の平坦部がある2段構えの石垣です。岐阜城山頂部に残る石垣の中で最も規模が大きい 井戸谷にある本丸井戸です。昭和初期まで登山客の飲料水として用いられていた

金名水井戸です。山頂付近には4箇所の井戸があり井戸谷に1個所、台所櫓西南の山頂に上段と下段に並んで2個所、台所櫓西方の山腹に1箇所ありこの金銘水は約2.5m×5m、深さ約4mの大きさで岐阜城の中では最大である 御城時計です。和時計、日本時計ともいいこの時計は明治5年製造された

昔の武器庫・食料庫を隅櫓城郭造りに復元したもので内部は資料館となっている 石垣です

天守台南西部隅信長時代の天守石垣です 天守台南西部隅信長時代の天守石垣説明です

天守台北西隅信長時代の天守石垣です 天守台北西隅信長時代の天守石垣です

天守台東側曲輪の東面石垣です。池田輝政の頃と推定されています 天守台東側曲輪の東面石垣説明です

裏門信長期巨石列です 裏門信長期巨石列説明です

裏門信長期巨石列です 裏門信長期巨石列説明です

裏門想像図です 裏門道三期石垣です

堀切です 全景です

大堀切です。斎藤道三が掘削したものでここを通り七曲道登山道に繋がります 外濠です。妙照寺の裏側にあります

展望台からの眺めです。中央に見える川が長良川で、中央の丘が鷺山城です

その他その他の史跡(千畳敷・居館跡・砦・祟福寺・円徳寺・信長神社他)

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