惣 郭 の 七 口 の 門

大垣城は南と東に大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であり惣郭には大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰の口、小橋口の七口之門があった



大  手  口  門  跡

大垣城の東にあり大垣城の正門ではじめに高麗門門と呼ばれる第一の門をくぐって左におれると威風堂々とした第二も門である櫓門につきあたる二重に城門を配置した枡形形式の堅子なものであった。明治4年大手門と取り壊したおりにその枡形跡に廣嶺神社を移建した。神社の東の水路がかつての内堀である。城主氏家常陸介直元(ト全)のとき松之丸の地に住んでいた松井喜右衛門に替え地をさせ、この地の警護を命じている
現在の大手口門跡です 昔の大手口門跡です

柳  口  門  跡

山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた
現在の柳口門跡です 昔の柳口門跡です

竹  橋  口  門  跡

大垣城に南西にあり侍屋敷の八幡曲輪に通じていた
現在の竹橋口門跡です 昔の竹橋口門跡です

清  水  口  門  跡

大垣城に西にあり侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。かつてこの門の近くに「大垣三清水」の一つがあり城主御用井戸として保護されてきたが、明治5年に取り壊された。現在清水口門は植物学者飯沼慾斎の別荘平林荘跡の正門として移築されている
現在の清水口門跡です 昔の清水口門跡です

辰  の  口  門  跡

大垣城に北西にあり侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。藩主戸田氏庸は天保11年(1840年)辰の口門外に学問所を創設しのちに致道館さらに敬教堂と改称した。藩主氏彬のとき規模が拡大され藩校から多くの学者・文人が生まれた
現在の辰の口門跡です 昔の辰の口門跡です

周   辺   の   史   跡

往環筋に惣門のひとつ名古屋口門(東惣門)です 往環筋に惣門のひとつ京口門(西惣門)です

大手門跡です平林荘跡に移築された大垣城の城門。この平林荘は江戸時代後期の蘭方医で植物学者として著名な飯沼慾斎が晩年を過ごした隠居所です 飯沼慾斎邸跡です

平  林  荘  跡  と  正  門

平林荘は蘭方飯沼慾斎が天保3年隠退後30年にわたって植物を研究した別荘跡である。平林荘正門は戸田氏寛が維新後ここに隠居し大垣城七口門のひとつ清水口門を移築したものである
平林荘跡です 正門です(清水口門を移築)

円  通  寺

円通寺山門は寛永12年(1635年)大垣初代藩主戸田氏鉄が尼崎から大垣に国替になった際同時の菩提寺である本堂の伽藍を移し現在他に建立したものである
円通寺本堂です 円通寺山門です

戸 田 家 廟 所 と 戸 田 氏 鉄 の 墓

この廟所は大垣藩主戸田家が尼崎から大垣に転封されて330余年間の廟所であった。昭和20年7月に空襲によりこの廟所も焼失し初代氏鉄・2代氏信・7代氏教の墓石を残しその他は四散破壊したが、市政45周年に際し復興した
戸田家廟所です 戸田氏鉄の墓です

照  手  姫  の  水  汲  み  井  戸

照手姫の水汲み井戸です。昔武蔵・相摸の娘で照手姫という絶世の美女がおりこの姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされころされてしまった。照手姫は悲しみ家を出て放浪し青墓の大炊長者のところまで売られてきました。長者はその美貌で客を取らせようとしましたが姫は拒み通し怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけた。この井戸は照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです
照手姫の水汲み井戸です

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